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2020-01-21

「ハマスホイとデンマーク絵画展」東京都美術館

1月の上野駅。
「ハマスホイとデンマーク絵画展」を見に行きました。

ハマスホイ展は日本では約12年ぶりとのこと。
12年前は仕事が忙しくて結局行けずじまいだったため、今回かなり楽しみにしていました。

訪れたのは夕方で、建物に木漏れ日が落ちていました。
その風景がどことなくハマスホイの絵画のようで、一人気分が盛り上がりました…

ガラスが反射して見えにくいですが、今はハンマースホイではなく、ハマスホイと呼ぶようです。

以下感想です。

農場の家屋、レスネス(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

時が止まったような、明るい透明な静けさ。

主題は家屋ではなく風景の持つ「静けさ」そのものなのではと思えてくる作品。

明るい日差しの中、煙突からうっすら静かにと立ち上る白い煙に、なんとも言えない良さがありました。


ライラの風景(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

若いブナの森、フレズレクスヴェアク(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

屋外。
写真では決して表現できない静けさをまとった風景画。

8ミリフィルムで撮影した無音の風景をずっと眺めているような、絵の中に音が吸い込まれてしまったような、不思議な感覚になります。

見る人によって印象は様々だと思いますが、個人的にはほとんど音を感じない、遠くでかすかに風がそよぎ、草や葉が擦れる音が聞こえるくらいの、心地よくも不思議な絵画でした。

ピアノを弾く妻イーダのいる室内(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

室内画。
ふと思ったのは、知らないマンションの内覧に来て、一人取り残され、ただぼんやり時間が過ぎていってしまったような感覚。
もちろんそんな経験はないのですが。

カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ 25番地(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

上の絵にはすごく既視感がありました。
なんとも言えない共感も。

日曜の午後、夕暮れ時の少し前、誰もいない部屋に日差しが差し込んでいて、部屋の一部を照らしている。

とても居心地が良いわけでは無いが、悪くも無く、時間を忘れてぼんやりずっと眺めてしまうような、そんな風景。

ハマスホイという画家を初めて知った時、自分が以前から漠然と「なんとなくいいなあ」と思っていたような光景を100年も前の画家が「どうだい?これがいいんだよ!」とばかりに真剣に人生をかけて描き続けていたということに単純に驚き、感動したのを覚えています。
(ハマスホイにとってそれは、もっとずっと崇高な芸術表現だったのだと思いますが…)

閉館までの間、どこに自分は惹かれるのか考えてみました。

描かれているのはただの森や海、街並み、室内風景ですが、その空間に漂う共通の静けさ。

静けさの中に、少しの寂しさと、哀しさと、諦めと、懐かしさと、温かさが
溶け込んでいるような、ぼんやりとした感覚。

その漠然とした何かに惹かれてしまいます。

そしてその、感じるけれども的確な言葉にできない「何か」を、ハマスホイは絵画という技法で表現しているように思いました。

室内─ 陽光習作、ストランゲーゼ30番地(ヴィルヘルム・ハマスホイ)
出典:「ハマスホイとデンマーク絵画」展覧会図録(読売新聞)

綺麗な花や美しい女性、劇的な宗教画などのように、特別な華やかさや、分かりやすい物語性があるわけではなく、ただなんとなく「いいな」と感じる風景。

ハマスホイはそこにある種の普遍的な美しさを見い出し、描き続けたのかもしれません。

考えてみれば分かりずらいし、かなり特殊なテーマだったと思います。

でもその感覚が現代を生きる人達にも、多くの共感を与えているということにも不思議な感動がありました。

美術館を出るとすっかり暗くなっていました。

この日はとても寒かったですが、月島で以前の職場の上司に初めてのスッポン鍋をご馳走になり、酔っ払って終電を逃して、最後はタクシーで帰宅しました。

ハマスホイの感動は少し薄れてしまいましたが、

とても良い1日でした…

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